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『吸血鬼に天国はない』 吸血鬼と愛を成立させる方法

 

吸血鬼に天国はない(3) (電撃文庫)

吸血鬼に天国はない(3) (電撃文庫)

  • 作者:周藤 蓮
  • 発売日: 2020/05/09
  • メディア: 文庫
 

「お兄ちゃんも真面目に生きて、天国を目指そうって気になってきたんですか?」
 個人でやっていた運び屋を、会社として運営し始めて早一月。恋人のルーミー、そして社員として雇い入れたバーズアイ姉妹たちとともに仕事を回す日々。経営は苦しいながらもシーモアは、情報屋のフランから「真面目」とからかわれるような幸せに浸っていた。
 だがある日シーモアのもとに捜査官から、ルーミーのもとに殺人株式会社から、脱獄した『死神』の捕獲・討伐に協力するようそれぞれ秘密裡に依頼が入る。
 一方、『死神』の手による連続殺人事件が巷を騒がせるようになり、街は徐々に無秩序がはびこるようになっていた。はからずも同時期、街には新たなる怪異が産声を上げようとしていて……。

 

 

 

ネタバレあり

 

 

 

このシリーズを三巻まで追ってきて一番最初に思ったのがこの物語は吸血鬼との愛を成立させる為に存在したんじゃないかということ。

思えば周藤連という作家は『賭博氏は祈らない』の時から愛に対してずいぶん遠回りをして答えを追っていた。そしてこの『吸血鬼に天国はない』も愛の成立のためにずいぶん遠回りをしている作品だ。何故ならそうならざるおえない設定があるから。まずヒロインであるルーミー・スパイクが吸血鬼であるという事だ。人を殺さないと生きていけない彼女は愛以前に生きていくという段階でつまずくことになる。

この作品の特徴として大戦と禁酒法によって道徳が崩れた時代と言うものがあるが一巻では世界の倫理観が狂った中で自らの倫理観との葛藤が描かれている。主人公であるシーモア・ロードとの出会いにより人を人として認識し始めた彼女は自らの倫理によって苦しむことになる。そしてこの倫理観が狂っている世界で確かさを失ったことによって葛藤を抱えているのはシーモア・ロードもであった。

のろのろとした歩みで彼はレジへと行って、ごとりと缶カウンターに載せた。

「らっしゃい」

老人が喋ると、その口のまわりに生えた髭がもそもそと動く。シーモアはその老人よりも年老いたように、カウンターに向かって頭を垂れながら呟いた。

「きっと。価値なんて全てが錯覚なんですよ。どこにも何の価値もないんです。僕にも、あなたにも、この世界にも」

世界には何も書かれていない。

どこにも絶対的な価値などない。

人を殺してはいけないという決まりですら、本当の所は決まっていないのだ。

「だから、この世界のどこにも、罪や罰なんてないんですよ」

「なにをいっているのかようわからんが、この缶は2ドル42セントだぞ」

対価を支払うまでは決して渡さん、と言外に老人は告げていた。

 

確かさを失った世界でシーモア・ロードはニヒリズムに陥っていた。そしてニヒリズム的思考でルーミー・スパイクの殺人を肯定しようとする。だが確かさを失った世界でも最低限の倫理やルールは存在している。物を買うためには売買契約が必要であるというように。

一巻では殺人という罪を認めた上でこれからは人を殺さずに罪と向き合って生きていこうという結論で締めくくられる。

だが結局ルーミー・スパイクは人を殺さずには生きていけない。2巻の内容はシーモアとルーミーは自らが間違いながら生きていくことしか出来ないことを認めた上で互いを好きになることで生きていこうという契約を交わす。これによってシーモアニヒリズムの脱却。ルーミーは間違いながら生きる事が出来るようになった。二人の関係は非常に身勝手なものであり読者の視点からは受け入れづらさや共感の出来なさと言うものは存在している。それは現代の、いや、彼彼女の世界の倫理観で考えてもズレているからだ。そして3巻ではその倫理観に対して深く切り込んだ内容になっていく。

3巻ではブライアンという警察が出てくる。彼には娘がいるがその娘であるエマは死神と呼ばれている殺人鬼に誘拐される。だがブライアンは捜査を自分主導で行いわざと遅らせていた。それはエマが生まれながらの殺人鬼だからだ。破壊衝動を抑えられないエマは動物を殺す行為を幾度となくしてきた。そのたびにブライアンはエマに躾として暴力を振るってきた。その結果エマは家出をし、そこで死神に誘拐された。ブライアンはそれを利用して自分の娘を殺されることを願った。だから捜査を遅らせるという事をした。

これは倫理的に正しいのだろうか。エマのやっていることは倫理から外れているがブライアンのやっていることは功利主義的には正しいが人の道からは外れていると言えるんじゃないだろうか。

死神はエマが家出した先で彼女を襲っている相手を殺しているところを見て自分の同類だと見抜き彼女を誘拐した。だが死神とエマは全くの同類ではない。死神は生まれながらの殺人鬼ではなく世界の確かさを失ったことによって殺人鬼になったのに対してエマは生まれながらの殺人鬼だからだ。それに気づいていた死神はエマに同情した。そして彼女を救うためにまず自分を救う事を決意した。

「世界の確かさを取り返す」

「確かな何かを見つけ出す。本当は取り戻すつもりなんてなかったんだけど、取り戻さなきゃなって気分に最近ぼくはなったわけだよ」

「……………エマ・コスナー」

「そ。あの子は可哀想な子だよ。同類を憐れむ神経が自分にあったとは驚きだけど、会った瞬間に、ぼくはこう思ったわけだ。『可哀想なこの子に、普通の人生と、それを生きるための信じるべき何かを取り戻してあげよう』って」

「でもその信じるべき何かを君は知らない」

「そうだね。僕は知らない。僕は知らないから、エマのことを救えない。あの子を救うためには、まず僕自身が信じるべき何かを取り戻す必要がある」

「成功例を真似することにしたんだ」

「君は吸血鬼──────人の身に余る怪物へと対峙することで、そのギリギリの環境で信じるべき何かをもう一度掴んだ。だから必要なのは、敵だよ。信じられないほどの害。存在自体で定められた悪。まるで大津波のような、何もかもを飲み込む圧倒的な力」

世界は海のようなものでだから何かにしがみつかなければ生きていけない。溺れそうになれば、誰もが掴むのだ。

そう語ったのはいつのことだったか

「君にできたんだから、ぼくにもできる。死ぬほどの災厄へと向かい合って、何かを掴み取る。何でもいいんだ、それは。しがみつくに足ると信じられるならば、本当にどんなものでも」

 

 

そして死神は""敵""を排除しようとする。その行為をシーモアは否定することが出来ない。何かを救うために倫理を破っているのは自分も同じだからである。

この問題を解決するために行われたのが倫理の遵守だ。まず絶対的に正しい倫理なんてのはどこにも存在しない。それはこの3巻でのブライアンからも分かる。国が違えば、時代が違えば、倫理というものは曖昧なものである。それでも倫理は存在している。この作品の世界ですらそうだ。そしてそれは殺人鬼である死神ですら持っているものである。死神はエマと出会ってから一人も殺してはいなかった。死神には死神の倫理があるからだ。どれだけ倫理から外れた行いをしようが、個人としてのボーダーラインは大抵の人間が持っている。エマは持ち合わせていなかったが死神にはあった。あったならそれを遵守させる方法はある。代替案があればいいだけの話だ。もし死神の心が全く機能していなかったのなら代替案なんてものは無意味だが、あったのなら無意味に倫理を超える必要はなくなる。

そしてこの作品では最後に願いによる愛の証明が行われる。多数が願えば願いは叶い顕在化するという設定が存在しており、それを使って愛の証明が行われたがその願いによって顕在化したものも一瞬のものですぐ消えてしまう。だが瞬間のものでしかないとしても世界に確かなものは存在していることへの証明にはなるだろう。これによって死神は倫理を超えることなく世界の確かさを取り戻した。

 

僕は『吸血鬼に天国はない』が自己と世界の問題、倫理の崩壊から不確かな倫理を超える時と遵守するとき描いてきたのはただ吸血鬼との愛を成立させる為のものだったように思える。もっと砕けた言い方をするなら、倫理的に考えて間違っている吸血鬼と主人公の愛を一人でも多くの読者に共感してもらう為にやってきたことなんじゃないかなと思う。この試みがどれだけ成功しているかは分からないが少なくとも僕は3巻である程度の納得はできた。突っ込みどころはあるし、詭弁でしかない所もあったがそれでもここまで積み重ねてきた愛をぼくは否定できない