たまにライトノベル

『ストレンジボイス』宛がわれた檻

 

ストレンジボイス (ガガガ文庫)

ストレンジボイス (ガガガ文庫)

 

日々希に虐められすぎて不登校になっていた遼介が、卒業式にやって来るらしい。日々希に、そしてずっと見て見ぬふりをしていた私たちに復讐するために。他人のすべてを知りたいという欲求にあらがえない私は遼介の部屋を訪ねる。そこで出会った遼介は、赤の他人と見紛うばかりに鍛えあげた体で、禍々しい形に削りだしたバットを私に突きつけた。「全員殴り殺してやる」。私は、心待ちにしている。遼介が復讐を遂げに現れる瞬間を―。癒やされることのない心の傷を負った少年と少女のためのサバイバルノベル。

 

学校を箱の中だと思ったことは多分大勢の人間が一度は思ったことがあるんじゃないだろうか。実際に学校ってのはガキを箱の中に閉じ込めたものだと僕は思っていて、そんな中で何も問題が起きないなんてことは然う然うない。

そう言う意味ではスクールカーストものってのは閉じた世界を書いている訳で意識的にしろ無意識的にしろ、閉塞感が作品内に漂っているものが多い

 

もちろんこのストレンジボイスという作品にも例外はなく学校という箱、檻、籠、の中での閉塞感に満ちた作品だ。ただ、この作品が他のスクールカーストものと違う点は意識的に且つマトリョーシカ構造になっている点だと思う。当たり前だが学校という箱の外には社会が存在している。大きく広がった社会、学校の外にはソレが確かに存在している。

そこに閉塞感があるかと聞かれたら、今はあると答える。結局の所気の持ちようでしかないような気もするけどこの作品を読んだ感想としては学校の外も大きな箱の中でしかないなと、それは窮屈で息苦しい。

 

だが、この作品、いや、人生にとってもっとも窮屈で息苦しく(それそのものにまったく価値がないとは思ってはいない)どうしようもない閉塞感を僕らに与えている檻は個人に宛がわれた檻だ。その檻は他者に手をさし伸ばすことをできなくする檻だ、人が人を救うのは困難で(生活以外の悩み限定)自分を救えるのはいつだって自分、にもかかわらず人は他者を求め続ける。一人だと""生きていくこと""しかできないから、他者に寄りかかる。そういう風にしか生きていけない人間もいる。

 

ストレンジボイスという作品ではそんなキャラクターが器用に、不器用に、夢を見て、壊しながら、生きている。本作の主人公である水葉はラストに檻の中から声を出さない選択をする。何故なら彼女は自分しか究極的に自分を救えないことを知っているし、なんなら自分ですら救えないものだと思っているから。

それはそれとして僕は人は他者を絶対に救えないとは思わないし分かり合えないなんてのもそれ自体がなんてことも──────────(話が脱線するので終わり)

 

話を戻して、自分しか自分を救えないとしてもこの作品の個人に宛がわれた檻は完全な密閉空間ではない事がこの作品の一番のミソなんじゃねぇのかなと思ってる水葉の他者とのコミュニケーションを取る際に対して水の中で声を聞いているみたいな例えを何度か作中内で使われてたけど、人によってその症状が軽いか重いかってのがあって、重いと水葉のように普通に生きていくことがより困難になってくんだろうなぁと。んで完全に閉ざされてる訳じゃないから諦めきれないし、だからこそ生きていくことも出来るんだろうな。それは呪いであると同時に救いでもある。きっと

 

 

なんて終われたら良かったよな。この作品の最後は結局結局水葉ちゃんが声を出さない/隙間を閉ざす、で終わりだからな。まぁそれでも生きていくという選択を取ってるだけ救いはあるんだろうけど(呪いかもしれんけどな)

 

まぁ最終的に何が言いたかったかていうとストレンジハウル、待ってますよ。江波先生