『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 僕たちは比企谷八幡だったのか?
孤独に負けず。友達もなく、彼女もなく。青春を謳歌するクラスメイトを見れば「あいつらは嘘つきだ。欺瞞だ。爆発しろ」とつぶやき、将来の夢はと聞かれれば「働かないこと」とのたまう―そんなひねくれ高校生・八幡が生活指導の先生に連れてこられたのは、学校一の美少女・雪乃が所属する「奉仕部」。さえない俺がひょんなことから美少女と出会い…どう考えてもラブコメ展開!?と思いきや、雪乃と八幡の残念な性格がどうしてもそれを許さない!繰り広げられる間違いだらけの青春模様―俺の青春、どうしてこうなった。
言わずと知れたライトノベルの有名作だが、あと1巻で完結という事で少し色々と書く
このブログのタイトルにもある、僕たちは比企谷八幡だったのか?について。この作品当時流行っていたときは幾人もの中高生が比企谷八幡に自分を重ねていたのは周知の事実であるわけだが、これほどまでに中高生の心を奪っていったのはやっぱり単純にすごいことで、他作品で例えるならライ麦畑でつかまえて、山月記、地下室の手記なんかが僕の中ではぱっと頭に浮かぶわけですけど、この手の作品のほとんどは読者=主人公の図式を否定しない。勿論作中で主人公の考えが肯定されることも少ないが。。。
じゃあ俺ガイルはどうだったんだろうかってのが7巻~9巻で、ある程度書かれてたわけなんだけど、本当に今更だけど当時高校生だった人間がそこについてちょっと語る。。
まず7巻で起こった出来事ってのが、奉仕部の価値観のズレ、だからこそ最後のシーンでは雪乃下と八幡との対立が生じた、正直この二人の奉仕部としての価値観のズレは前からあったわけだけど、どうして修学旅行の戸部の件だけそれが表面化したのかは、分かんねーけど。勿論この二人だけでなく由比ヶ浜由井に関しても、この時すでに価値観のズレは表面化してきていた。もっと人の気持ち考えてよ!のところですね、。、
あと七巻で重要な所は葉山隼人が戸部の件では身動きが出来ず、八幡に頼ったところで、あそこで八幡は上っ面の関係性を否定してることかな。。
8巻では、前巻で否定した上っ面の関係を八幡自身の手で守って終わりですね。
この巻で僕が重要だと思ってるところは、誰もが相互理解を求めてる点、八幡が否定していた、関係性に意味があるのを認めた点、この2つ特に誰もが相互理解を求めている点は特に重要だと思っていて、雪ノ下は言わなくても分かってほしくて葉山は八幡と
自分が似た人種だと思っていて、八幡は葉山に理解されたのかもと期待を持っていた
八幡は雪ノ下と自分が同じ信念を持っていると信じている。これらから読み取れることは、理解したい、理解されたい、世界は自分一人ではないそう言う独我論の否定に躍起になっているように見えた。そして9巻ではそれが否定される。
9巻では、八幡が自らが否定した欺瞞の関係性にいついて価値があることを認めた上で、それでも、本物が欲しいと叫んだことはあまりにも有名であるが、こういう作品僕はあんまり触れたことことないんだけど、珍しいと思ったんだよな
普通この手の作品だと、酸っぱい葡萄は酸っぱい葡萄だし、普通に価値があることを主人公が認めたらそこで終了ってのが多いと思ってたので、珍しく感じたんだよな
まぁでもここで大事だったのは、そこじゃなくて言語問題についてだったんだけど。。
あとがきでも渡航自身が言ってるので、多分間違ってはいないと思う。。。
まぁでも結局、本物が欲しいと叫んだ八幡を理解してくれる人間はいなかったんですよね。雪ノ下も由比ヶ浜も。。
でもそれでも求め続けるよーみたいな感じで9巻は終わったわけだけど、今回僕が語りたいのはそこじゃなくて僕たちは比企谷八幡だったのか?ってところな訳で、そこで重要になってくるのが、ジェットコースターを乗った後の雪ノ下と比企谷との会話なわけです。
「まだ、あの人みたいになりたいと思っているか?」
「どうかしら。今はあまり思わないけれど......ただ、姉さんは私にはないものをもっているから」
「それが欲しいとか」
「いいえ、何で私はそれを持ってないんだろうって、持っていない自分に失望するの」
「あなたも、そうよ。あなたも私にないものを持っている。......ちっとも、にてなんかいなかったのね」
「そりゃそうだ」
俺達はけして似ていない。なのに、中途半端に近い要素があるからつい、自分と重ねて、勝手に考えて、勘違いして、感情をはき違える
ここで僕が思ったことは、読者の自己投影先にいる比企谷八幡との関係性の否定だったんですよ。この俺ガイルって作品の7巻~9巻では、これでもかってぐらい対比が描かれてるじゃないですか?めんどいからあげないけど、あるんだよ。ある
んで、中途半端に似ていたキャラクター達は、この話の流れで、自分と重ねて、勝手に考えて、勘違いして、感情をはき違えてきた。
で、それって、作品内だけに収まってねぇんじゃねぇかって思ったんですよ。当時の僕わ。この作品の内外を問わないなら、一番勘違いしていたのは、僕たちだったんじゃないのか?と
あの日、あの時、比企谷八幡に感情移入や自己投影をしていた僕たちこそが一番勘違いしてきたんじゃないのかと。
だったら、僕たちは───────
それでも、それでも俺は..................
まぁ違うからこそいいとか、なんだとかこーだとか、そんなことは正直ここまでいっといてアレだけどもうどーだっていいんですよね。
願わくは、この作品が”””青春”””の二文字に包括されるような最高のエンディングを迎えますように