『僕らは『読み』を間違える』 センチメンタルになれない生涯を送ってきました。
すれ違う恋と、掛け違う推理。第27回スニーカー大賞《銀賞》受賞作!
学生という生き物は、日々「わからないこと」の答えを探している。
明日のテストの解答、クラス内の評判、好きなあの子が好きな人。
かく言う僕・竹久優真も、とある問いに直面していた。
消しゴムに書かれていた『あなたのことが好きです』について。
それは憧れの文学少女・若宮雅との両想いを確信した証拠であり、しかしその恋は玉砕に終わった。
つまり他の誰かが?
高校に入学した春、その“勘違い”は動き出す。
「ちょうどいいところにいた。ちょっと困っていたとこなんだよ」
太陽少女・宗像瀬奈が拾い集めてくる学園の小さな謎たち――
それらは、いくつもの恋路が絡みあう事件《ミステリー》だったんだ。
ネタバレあり
突然だが僕は学生時代の良かった思い出というのが殆どない。休日に遊ぶような友達は中学生の頃までしか居なかったし、誰かと付き合ってたなんてことも無かった。およそ表立って青春と呼べるような事象とは縁遠い学生時代を送ってきたんだが、これはいい年してライトノベルの青春モノを読んでいるラノベ読書に対してもそれなり(そこまで酷くはなくても)に当てはまるんじゃないだろうか?
この物語は主人公である竹久優真が太宰治のことがあまり好きではないと言うところから始まる。イケメンで才能に恵まれお金も持ってるそんな太宰治が人生の何に不満を持っているんだと持たざる者の憤怒の叫びだ。
弱者が強者を見上げる構図は古今東西、特にライトノベルでは多く使われてきたが結局のところ僕達は比企谷八幡ではなかったし弱者としての主人公ですらなかった。そこで『僕らは『読み』を間違える』はそんな僕らに対してのifを提示する。
ツルゲーネフの『初恋』の章で中学生だった竹久優真が初恋の女の子との仲を同学年に茶化された時に女の子の手を取ってその場から離れる展開があるが、僕はそこに『秒速五センチメートル』を見た。だが、その女の子は竹久優真を好きではないし、可能性は存在しなかった。ここで僕は淡い恋心を経験することもできずセンチメンタルにすらなれなかった人間に対しても救おうとする気概を感じたが、それはこの章の終わりで竹久優真はフラれた直後にセンチメンタルぶっていたがまた盛大な勘違いをして玉砕するからだ。この惚れっぽさと次に以降する速さは過去を引きずる気取りを感じさせない。
この物語は群像劇なので視点が変わるところからが面白く、弱者と強者の構図が逆転する『春琴抄』の章からが本番である。視点が変われば世界が変わるってのは芥川龍之介の『藪の中』が有名で作中でも引用されるけど、それを青春モノとして落とし込んだ『桐島、部活やめるってよ』からこの物語を語りたいと思う。
『僕らは『読み』を間違える』は僕らにifを提示するといったが、竹久優真の視点からではないのはこの作品を読んだ読者なら分かるだろう。何故なら竹久優真は主人公であり、陰キャの星なんだから。クラスの隅っこでライトノベルを読んでいた僕たちは決して竹久優真ではなく材木座義輝(俺ガイル)だしあの頃、竹久優真や比企谷八幡に憧れていた。
『春琴抄』の章以降ではそんな本当の意味での""僕達""の物語が存在していて、ボタンを掛け違えてただけで、僕達にも青春と呼べるような、そういう可能性が提示される。たとえそれが実際には起こらなかったとしても、もしかしたら僕らの知らない裏側で物語が展開されていたのかも知れないってのは失恋の痛みすら真っ当に学生時代に持てなくて青春モノを読んでもセンチメンタルにすらなれないおめぇらに寄り添ってくれる物語だ。
お前らの為の物語で俺の為の物語だ
そしてこの物語の最も優れているところは、陰キャだけを救おうとした訳じゃないところだろう。グレート・ギャッツビーの章は間違いなく『桐島、部活やめるってよ』を意識している(陰キャに憧れる陽キャ)(バスケのシーンがある)んだが桐島の映画では東出くん(俳優)が桐島に電話をコールするところで終わるのに対して、本作は本作の桐島である竹久優真に陽キャが電話をコールするところでは終わらない。最後を語らなかった『桐島、部活やめるってよ』に対してその続きを描いてくれたのが『僕らは『読み』を間違える』だ。
陰キャと陽キャ両方を救おうとした『僕らは『読み』を間違える』は学生の群像劇として優れているのもそうだが、俺ガイル以後、桐島以後の青春モノとしての締めくくりに相応しい作品だろう
