たまにライトノベル

『冬期限定ボンボンショコラ事件』 ブレーキを踏む

 

 

 

ネタバレあり

 

 

 

終わった。いや、終わらせたと言った方が正しいか。

 

突然ですが皆さんはブレーキを踏むと聞かれて何を連想しますか?大多数の人は車が最初に思い浮かぶかも知れませんね。

ですが、当たり前と言えば当たり前で他の使い方も沢山ありますよね。例えば僕は『冬期限定ボンボンショコラ事件』を季節に合わて読みたいと思い今まで読むのに対してブレーキを踏んでいました。

結論から言えば、良かったです。まぁ、読んだ人間なら全員分かっている通り、今の時期に合いすぎた物語になってるからですね

 

まぁ、それは置いといて、今回の冬期限定では小鳩くんがひき逃げにあったところから始まる。この時点で僕は小市民シリーズにおける青春の終わりとは日常の謎(ミステリのジャンル)の破壊なのかもしれないと薄っすらと思っていた。

なぜ薄っすらかというと、それを認めたくなかったからである。ただでさえ、青春ミステリとしては尖りすぎてると言える小市民シリーズが殺人を(間接的にとはいえ)認めてしまったらこのシリーズの青春であった部分が嘘になってしまうんじゃないかとビビってしまっていたのだ

 

だが、冬期限定はブレーキを踏んだ。日坂は生きていたのだ。その瞬間「こいつ(米澤穂信)日和ったな」と思った。恐れていた日坂の死が訪れず生きていた。それなのに日和ったなと思った。もっと言うと近親相姦してたってオチでも良かったはずだと………

何故ならそっちの方が殺人の動機として"正しい"からだ

物語の面白さを考えたとき、このシリーズが単巻完結の物語ならアクセルを全開に踏んで読者が不快に思うであろうラストの方が似合ってたと思う。

 

それでもブレーキを踏んだ。何の意味がある?物語の面白さ以上に僕たちが求めるものがあるのだろうか

 

やさしくなれないぼくたちへ

 

自分語りをさせて下さい。僕は優しくなりたいをモットーに生きています。でも露悪的な人間です。どうしようもないぐらい。やさしくなりたいと喚きながら自分の露悪さを隠そうとすらしていない。

想像できないなら想像してみてください。自分が嫌いな日々露悪的な発言をしていながら、やさしくなりたいと言っている人間を。はっきり言ってそんな人間は信用できない。誰が見たって理性のブレーキが効かない露悪的な人間を信用なんて出来ない。それに対して「でも、僕はやさしくなりたいと思ってるんです」なんていったい誰が信じるんだろう。

いや、信じないだろう。そんな露悪的な態度の人間を僕たちは信じない。

それに対して「分かってほしい」だなんて思うのは烏滸がましすらあるだろう。何故なら本質的にそういう人間だし表に出で来る部分を信じるのが普通だからだ。

 

ところで、小市民でありたいと言いながら全くブレーキが効かずに謎を解いてしまう彼や復讐をしてしまう彼女の「小市民になりたい」という願いは誰が信じてくれるのだろう。本人たちですら信じきれてないような願いを

 

ジャンルとしての青春ミステリ

 

極端な話し別に人が死のうが青春ミステリは成り立つ。それでもこの作品は人を殺すのにブレーキを踏んだ。それはきっと小鳩常悟郎の願いを信じてあげられるのが日坂くんだけだったからだ。

「なあ。おまえ、鬱陶しいよ」

例え善意の押し付けだったとしても、これでショックを受けるのは謎を解きたいだけの人間だったらありえないのは論理から推測できる。だから小鳩くん本人ですら信じてないような願いをすくい上げるには古典的な青春ミステリ像を守る必要性があった。

ただ別に無視してもよかったとも思う。実際『秋期限定栗きんとん事件』ではそれらを無視したうえで納得のいく作りになってたから。

それでもブレーキを踏んで、小鳩くんの願いを無視しなかったこの作品はやさしさに溢れている。いや、甘いか。スイーツのようにね

 

世の中の殺人は大半が感情的なものだ。それらを止めることが出来るのは理性。きっと誰だって常に理性的な人間であろうとするのは難しいだろう。殺人とまではいかないでもダメだと分かってるのに理性のブレーキが効かないときはきっとある。

だから僕たちは理性と感情の狭間で生きていく

どちらも重要だと信じて