たまにライトノベル

『ブルーアーカイブ』メタファーからの解放 私が私になった日

ブルアカ『あまねく奇跡の始発点』感想①──透明だけれど無色じゃない|テキサスタイプライター|note

 

あまねく奇跡の始発点、終了しました。感想です。

 

──この物語は、覆された。

脈絡、構成、ジャンル、意図、解釈……すべたが破壊され──

その意図は絡み合い、混ざり、撹拌され──

統制できない程に褪せてしまった。

先生よ───

これまでの物語は全て忘れるが良い。

これからお前の身に起こることは、

最早そのような物語ですらないのだから──

 

エデン条約編がゼロ年代から青春の物語に覆された物語であることから(前のブログで書いてます)フランシスのこの発言はもう一度青春の物語からゼロ年代に反転させるという意味であることが分かる。

 

色彩は、我らの本質を歪曲する。より正確に言うのであれば──根源を反転させると言うべきかのう。いずれにせよ、今の自分でなくなることに変わりはない。

 

そして色彩によって根源が反転されたシロコはゼロ年代のメタファーとなる。

 

想像界で表象され、現実界へと至る──象徴界の記号である隠喩なのだ!!!

 

ブルーアーカイブでは度々責任について言及されてきたが、そのたびに先生である"大人"が責任を負うべきであると答えてきた。そして今回すべて自分で責任を負おうとしたのがシロコテラーである。子供が責任を負う物語というのは今も昔もあるけど、まぁここで出てくるのはセカイ系でしょう。シロコテラーはゼロ年代のメタファーなんだから。

 

そして今までと同じように大人である先生が責任を負ってセカイ系のアンチテーゼでゼロ年代からの脱却が行われる。正直ここまではエデン条約でも似たような事やっていたし、同じことやってどうすんねーーんって感じなんだが、こっから見事に覆したね。

 

(違う、)

(あの子は……)

(アビドス高等学校の……砂狼シロコだよ。)

私の「世界」で苦しんでいる、ただの「子ども」だよ。

 

シロコをメタファーとして捉えていた無名の司祭はここで先生に否定されることでシロコはメタファーから解放される。そしてこれはプレナパテスやA.R.O.N.Aもである。この二人もブルーアーカイブのもう一つの側面である部分として存在していたがシロコ同様にメタファーから解放される

 

理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか

 

二つ目の古則、エロゲやったことある人間ならまず間違いなく他者の話である事を推察できるし、実際そんな感じなんだけど、俺はこの問いに違う言葉を入れたいと思う。先生が好きな言葉を入れていいといっていたので。

 

理解できない他人(物語)を通じて、私(物語)を確立することができるのか

 

他人を通して自分を見つけることが出来たなら、それは繋がりたり得るだろうか?それは分からないが、他人の目に自分が写っているのは私という存在の認識に繋がるだろう。

 

あまねく奇跡の始発点では自分という他者であるシロコテラー/プレナパテス/A.R.O.N.A/を通じてこの三人も含めて私を確立する話であったように思う。

A.R.O.N.Aがアロナからプラナという名前をもらって私が私になったのだから

そして、この自分で自分を確立するやり方はブルーアーカイブでも行われている。時計じかけの花のパヴァーヌ編でのアリスの「私は私になりたいです」はゼロ年代の模倣から始まったブルーアーカイブという物語を自分自身で私を確立させようとした言葉に繋がる。

 

だから、あまねく奇跡の始発点はゼロ年代の模倣、そしてアンチテーゼを超えて

 

ブルーアーカイブがブルーアーカイブになった日である。

 

私という物語が生まれ始まった、そんな奇跡の始発点

 

はい!私たちの帰る場所であり、私たちの物語が始まる場所───

Blue Archiveに!