たまにライトノベル

『ブルーアーカイブ』ゼロ年代からの脱却 彼女たちの物語

 

エデン条約編やって他の物語に身が入らなくなってるし切り替えるために感想を書こうかなという次第

やたらゼロ年代がどうのこうの言われてて興味を持ったんだけど、確かにゼロ年代を感じる部分は多くある。特に二章『不可能な証明』の往年の名作エロゲっぽさは成程ねぇと頷きながらやっていた。

楽園に辿り着いた者は、楽園の外で観測されることが無い。存在することを観測できない……楽園の存在証明に関するパラドックス……

もし「他者の本心なんてものに辿り着いたら……それはもう、他人ではありません。辿り着けないなら、やはり本心など分かっていないということで……。

楽園も、誰かの本心も一緒……そういうお話ですか?

 

👆っぽいどころかゼロ年代のエッチゲームそのものやないかーい。

はい。これでメインライターが田中ロミオから影響を受けてないって流石に噓でしょ。いや受けてないらしいんだけど(ツイッター調べ)

 

まぁ細かいことは気にしないで次行きましょう

 

Vanitas vanitatum et omnia vanitas

全ては虚しい。どこまで行こうとも、全ては虚しいものだ

他者の心は理解できるか?という証明できない問題を突きつけ同時に人生の不条理からキャラクターが苦しむ展開によって彼女たちの日常は崩壊していく。まぁここまでは割とよくある流れだがブルーアーカイブではすでに崩壊前に答えが提示されている。これは結構珍しいんじゃないだろうかと思う。

それがたとえ虚しいことであっても、抵抗し続けることを止めるべきじゃない。

アズサのVanitas vanitatum et omnia vanitasに対する回答がこれで、エデン条約編の最後まで解として扱われている。もう一つ先生の"ただ信じる"というのも崩壊前に解として出されている。

やってる時はなんでテーマに対する結論をこんなあっさりやってんだろうと思っていた。これじゃ盛り上げる部分で感動できないでしょというモヤモヤは三章で全てがクリアになって透き通る

 

私たちの物語

 

ブルーアーカイブは誰の物語か?ゼロ年代を意識しているならゼロ年代エロゲおじさん達の物語なのだろうか。答えはNOである。ここまでゼロ年代の流れを汲んでオタク達を興奮させてきたブルーアーカイブだが三章では大人の物語から子供の物語へと移行していく。大人と子供が断絶されているというのはブルーアーカイブの特徴だが(大人でも子供でも無いという半端さがない部分による是非はともかくそういう作りになっている)そんな世界で最も大人と子供の断絶の影響を受けているアリウススクワッドの面々に対して搾取する側と搾取される側の構図が一人の少女によって破壊される

そんな暗くて憂鬱なお話、私は嫌なんです。

それが真実だって、この世界の本質だって言われても

私は好きじゃないんです!

私には、好きなものがあります!

友情で苦難を乗り越え 辛いことはお友達と慰めあって......!

苦しいことがあっても……誰もが最後は、笑顔になれるような

そんなハッピーエンドが私は好きなんです!!

誰が何と言おうとも、何度だって言い続けてみせます。

私達の描くお話は、私達が決めるんです!

終わりになんてさせません、まだまだ続けていくんです。

私たちの、青春の物語を!!

これは先生が楽園の証明がさほど重要ではないと言ったのと同じ意味を持っているが同系統では無い。先生の"ただ信じる"は社会がある程度他人を信じないと回らないものである論理から成り立っているのに対して青春の物語だからなんてのは一切論理が通っていない戯言に過ぎない。それでも、ブルーアーカイブではそんな戯言が通ってしまうのである。何故か?それは""私たち""<青春(イマ)の物語>だからだ。

 

先生……あなたが介入してしまうと、すべての概念が変わってしまいます。

元々この物語の結末はこうではなかったはずなのです。

友情で苦難を乗り越え、努力で打ち勝つ物語……?

私が望んでいたテクストはもっと文学的なものだったはずなのですが……。

ゴルコンダは大人でありここで言われる文学的なテクストとは90年代後半からゼロ年代前半の鬱屈とした物語だろう。何故なら彼は大人でありこの物語自体、大人がゼロ年代からの影響で描かれていて普遍性のある世代を問わない物語として途中まで仕上げているからだ。

 

それでも、それだからこそだ。

 

『ブルーアーカイブ』が青春の物語として今を捉えようとするのはこの物語が過去ではなく"彼女たちの物語"で、未来へ向かうのは明日を信じているから

 

話が逸れるが僕には年の離れた弟がいてコロナで行事が潰れたりもしていた。それで「まともに青春もできなくて可哀そうだな」みたいな事を会話の中で言うと「普通に遊んではいるけど」と返されたことがある。大人の勝手な同情心とは裏腹に彼ら/彼女らには彼らなりの青春があってそれは大人に規定されるものじゃなかった。僕らは大人になってしまうと忘れてしまいがちだが何てことない日常も本当は青春の一ページなのだ。

 

それは補習授業部の何てことない日常の一ページのように───────

 

ハッピーエンド

 

当たり前の話だが人生が良いか悪いかだなんて主観で全てが決まる。極端ではあるが幸福はやっぱり自分の心持しだいだ。エデン条約編の最後がハッピーエンドかと言ったら客観的に見ればそうではないキャラクターが多くいる。だが、そんなことは本来読者にすら決められるものじゃない

こんな事で弱音を吐いたら、コンクリートに咲いている花に失礼だからね。

アズサはあの時、花を見てこう言ってた。

それがたとえ虚しいことであっても……抵抗し続けることを止めるべきじゃないと。

アズサがやり遂げているのだから、私たちににもできないわけないよ。

私たちの青春は、私たちだけのものだから

 

この台詞によって彼女たちの物語は完成される。ゼロ年代を通ってきたオタク達はもう社会に出て入れば後輩を導く側でしょう。青春の物語の中で彼らが主役たり得たのはもう昔の話で

だからこの物語は、僕らではなく彼女たちの物語

 

Bule Archive

 

 

とは言ってもこれは阿慈谷ヒフミの軸の話であって美園ミカ軸の話では割とゼロ年代的テーマ性を包括しているし決して過去を蔑ろにしている訳ではなく、エデン条約編自体はかなりフラットな物語として機能していると思う。