たまにライトノベル

『弱キャラ友崎くん』と『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』

 

人生はクソゲー。このありふれたフレーズは、残念ながら真実だ。

だって、人生には美しくシンプルなルールがない。あるのは理不尽と不平等だけ。自由度が高いなんてのは強者の言い分で、弱者には圧倒的に不利な仕様でしかない。

だから、クソゲー
あまたのゲームに触れ、それらを極めてきた日本屈指のゲーマーである俺が言うんだから間違いない。

――だけどそいつは、俺と同じくらいゲームを極めてなお、「人生は神ゲー」と言いきった。

生まれついての強キャラ、学園のパーフェクトヒロインこと日南葵。
しかも、「この人生(ゲーム)のルールを教えてあげる」だって? 

……普通は、そんなの信じない。
だけど日南葵は、普通なんて枠にはまったく嵌まらないやつだったんだ! 

 

 

 

 

 

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

 

青春は嘘で欺瞞だ。リア充爆発しろ!
ひねくれ者故に友達も彼女もいない高校生・八幡が生活指導の先生に連れてこられたのは、学園一の美少女・雪乃が所属する「奉仕部」だったーー。
さえない僕がひょんなことから美少女と出会ったはずなのに、どうしてもラブコメにならない残念どころか間違いだらけの青春模様が繰り広げられる。
俺の青春、どうしてこうなった?

 

 

 

 

弱キャラ友崎くんってやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。と関連性が高い、というか、かなり意識してるよね?と前々から思ってたので、ここ意識してるんじゃねぇかな~みたいなところを上げてく。「作者の人そこまで考えてないよ」って言う話になってくと思うので、話半分と言う感じで。。。いや、半分もない。。。。

 

あ、弱キャラ友崎は三巻まで俺ガイルは9巻までのネタバレがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、最初に同じレーベルからでてるからこそ、読者の意識が俺ガイルへと向きやすいってのはあるだろう。これがもし違うレーベルだったらポスト俺ガイルなんてのはあんまり言われてないんじゃないかな。まぁ今よりはってだけで言われるには言われるだろうけど。

次に作品の共通項として、同じ青春ラブコメであり、一番最初のモノローグの人生はクソゲーだ。の下りがそれとなく意識してるのかな?ってぐらいは多分俺ガイルを読んでいる人間ならそう思うだろう。ただ弱キャラ友崎くんは俺ガイルと同じ方向に進む作品ではない。というのも、日南葵の存在があるからだ。この日南葵というキャラクターがいるため、友崎君はリア充を目指すことになる。ここまで読んで思ったことは、この作品は俺ガイルへのカウンターの作品であるという事。正確に言えば俺ガイルと言う作品が、アンチリア充と言う訳ではないが、そういう作品であるといってもまぁそこまでおかしくはないため、弱キャラ友崎君は俺ガイルへのカウンター作品と言えるだろう。

であるなら最初のモノローグもわざとフォロワー作品であるかのように書いてる可能性もある。そうすることによりカウンター作品として分かりやすくなるからだ。

他にも弱キャラ友崎くんの一巻では、俺ガイルの文体の真似事がされている。最初読んだときは、劣化フォロワーだなぐらいしか思ってなかったが、あれも多分俺ガイルへのカウンター作品として読者に分かりやすく提示するためにあえてやったことなのではないかと思う。と言うのも文体の真似は最初だけだったからだ。

「ちょ、ちょっと待て。えっと、なんで俺がそこまで......言われなきゃならないんだよ?」

「事実を言っただけだけど」

「事実、だからって......い、言っていいことと悪いことが、あるわけでだな」

「なにそれ?」

「よく知りもしないやつに、こ、向上心だとか負けたまま放棄?だとか......そういう説教をされる筋合いはない、失礼だろ、と、言いたいわけで......」

「人に失礼だと思うなら、まず口に物を入れたまましゃべるのをやめるべきじゃない?」

「なんも入れてねぇよ!」 

 

 

まぁそんな俺ガイルへのカウンター作品である弱キャラ友崎くんだが、アンチリア充へのアンチテーゼだけではなく、じつはもう一つ俺ガイルへのアンチテーゼが込められていると僕は思っている。それというのも、比企谷八幡が欲しているものだ。

比企谷八幡というキャラクターが一歩踏み出したのが9巻であり、そこで欲したものは酸っぱい葡萄だった。「俺は、本物が欲しい」この比企谷八幡が欲しているものを、日南葵は否定する。そんなものは存在しない。だから常に上を目指すべきだと。だからこそ友崎君もそれに従って行動していた。ただ、厳密にいえば俺ガイルで扱われている本物と弱キャラ友崎くんで扱われている自分が本当にやりたいことは違うものだが、

言語で証明することの難しさ、抽象的な問題という点については、同じことだと考えている。

弱キャラ友崎くんと言う作品はこの二つの俺ガイルへのアンチテーゼを抱えている。

ただ、この展開が続いていたのは二巻までであるのは読んでいる人間ならわかるだろう。日南葵の考え方に友崎君が異を唱えたのが、三巻である。これが何を示しているかと言えば、俺ガイルが9巻で到達した舞台に三巻で到達し、同じ土俵に入ったという事だ。弱キャラ友崎くんで二巻までは否定されてきた考えである、俺ガイルへのアンチテーゼを友崎君がそれは違うんじゃないかと、本当にやりたいことは存在するんじゃないか、それをやるべきではないのか、そう主張しているのだ。これによって、弱キャラ友崎くんは俺ガイルと同じ土俵に立ったのだ。

 

俺だけは、こいつに必勝を叩き付けることができるのだ。それは俺が俺の目的を達成するためだけに作った、本来なら俺以外は誰も上がってこないような、本当に身勝手な土俵なのだけど。こいつは、こいつだけは、そこに上がってきてしまうのだ。だってこいつは、相手の土俵に立って正面から潰すことを選び続ける、根っからの負けず嫌いなのだから。 

 

この友崎君のモノローグは、ただのカウンター作品としてじゃなく、俺ガイルと同じ土俵に入って、叩き潰すという宣戦布告にどうも思えてしまったのだ。

 

 

こんなとこです。ほぼほぼ僕の下らない妄想でしかないよな気もするけど、ここまでカウンター作品としてクオリティの高い作品、そうみかけないよなぁ。。。

ライトノベルでは、流行に対するカウンターはすぐ出てくる印象だけど、ここまでレベルの高いのは、そうみない。まぁ憶測の産物でしかないのだけれど